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松井石根大将の真実を明らかにすることは、近現代の人類史的意義を持つ

松井石根 礼装
松井大将の統帥に関する問題
松井大将の統帥の問題ですが、そこを明確にすることこそが、松井大将の歴史的位置、日支事変の真相、先の大戦時の日本の指導者層の真相を知ることになると、私は思ってきました。
概略ですが「松井大将の統帥の問題の背景」について書きます。

1.松井石根大将の統帥問題の背景
松井石根大将は、シベリア出兵に参加した後、支那通陸軍人としては異例でハルピン特務機関長を務める中で、日本精神を核とした大亜細亜主義を明確にし、現実的にそれを実現することの必要性を痛感していたところ、満川亀太郎、中谷武世等猶存社のメンバーを中心に、下中彌三郎、中山優、今岡十一郎、清水董三、中平亮、宇治田直義やインドのラス・ビハリ・ボース、安南の王族コンデイ(橿抵)等が集まっていた半学究的団体である汎アジア学会の思想活動が自己の目指すものと同じであることを知りそれに参加した。
1932年の満洲国建国と同時に、松井石根大将と下中彌三郎、中谷武世等は大亜細亜主義を実践すべき時期が到来したと確信し、彼らと
樋口季一郎、本間雅晴、飯村穰、鈴木貞一、芝山兼四郎、山脇正隆、影佐禎昭等の少壮佐官が中核メンバーとなり、石原莞爾などの陸軍満州派の一部や南大将、小磯中将、建川中将らの陸軍宇垣派のほとどや旧知の菊池武夫等の陸軍軍人、末次信正大将、南雲、山口多聞、加来止男、石川信吾等の「艦隊派」を含む旧知の小笠原長生等の海軍軍人、広田弘毅、筒井潔田代重徳等のアジア主義外交官村川堅固、鹿子木員、平泉澄、太田耕造、中山優杉森考次郎、内藤智秀等の愛国派知識人などを会員役員にして大亜細亜協会を設立しました。


 大亜細亜協会と対立した諸派
その大亜細亜協会の設立は、その会員たちと対立する諸派に大きな衝撃を与え脅威を感じさせました。
大亜細亜協会と対立した諸派とは、
①日本国内、中国、ソ連の共産主義者・共産党、(共産主義者、共産党が最初から大亜細亜主義に強烈に反対  中国共産党創設者の李大釗等)。
 また昭和研究会に集った尾崎秀実や堀江邑一他の知識人は中国通であったが反共産主義を旗頭の一つとする大亜細亜協会を完全に避け一切加わっていない。
②陸軍の統制派・皇道派のほとんど、(宇垣派に反対と松井大将が「清軍派(松井大将自身は派閥形成を拒否)」の頭領であったから)
③海軍の加藤、米内、山本等の軍縮派、(艦隊派と敵対)
④幣原喜重郎、吉田等の欧米協調派外交官(アジア主義外交官と対立)
大亜細亜主義者は、一部資本家が富と情報、権力を独占する欧米式の金融独占資本主義を批判していたので、満洲国でも日本の財閥や欧米からの投資を出来るだけ受けないようにしたり、上海を占領すると反日の源泉でもある現地のユダヤ系資本の勢力をそぐように努力しました。
 だから日本国内外の金融資本勢力、財閥勢力が有力なアジア主義に対する反対勢力でした。

①には政治家、学者、作家、新聞記者等が広く含まれます。

 支那事変直前までは大成功していた大亜細亜協会
1937年の支那事変発生まで迄に大亜細亜協会は大発展していて日本各地と朝鮮、台湾、天津、広東に支部が設立されていて活発な活動がされていました。
日本各地で会幹部を派遣した「興亜の意義」の演説会が開かれ何処でも会場に入りきらない観衆が集まる盛況で、天津などの支那の支部では現地の小学生たちが同じく「興亜」を主題とした日支提携、アジア解放の作文を書いている状況でした。
又日本国内の各学校でも「興亜教育」が広がりつつある状況で「興亜」は正に当時の日本の主要思潮ともなっていました。

2.支那事変での松井大将の統帥問題

 誰が何故、松井大将を派遣軍司令官に推薦し任命したのか?
1.のような状況の中で第二次上海事変が起ると、陸軍派兵が決まりますが、上記のように大亜細亜主義で大成功している松井石根大将が派遣軍司令官として任命されます。
言い換えると、事変の停戦や平和収拾、占領地の親日政権樹立、日本の正しさを海外に広宣するのに最適な松井大将をそれらが最も困難となる派遣軍司令官にしたのは何故か?

 派遣軍の構成の問題
柳川平助中将(皇道派の事実上の頭領)が第10軍司令官に任命され、本来松井大将と十分な連携と指揮のもとに戦闘を遂行すべきなのに、独断で作戦立案遂行をした問題。
 松井大将は2.26事件後に事件首謀者の皇道派将校の厳格な処罰を主張した。
中島今朝吾中将(統制派の健将)が京都師団長として、松井大将の直接配下の南京攻略の中核部隊となっていたが、度々、兵の軍記違反を見のがし、これみよがしに松井大将の支持を無視し、更に大将の𠮟責に公然と反抗した。
 事変の数カ月前に、首相任命の大命降下を受けるため参内する途中の宇垣一成の車に乗り込み大命降下受諾をやめさせようとし、更に宇垣支持派だとして、当時東京憲兵隊司令官として松井大将の逮捕を主張したほど、松井大将とは敵対していた。
③更に、多くの敵対者が派遣軍にいた。

 日本政府と軍中央の松井司令官への支援の消極性
 松井大将は司令官に任命されるとすぐに、大亜細亜協会役員で上海・ユダヤ問題専門家の犬塚惟重海軍大佐を幕僚に加えることを要求したが拒否されました。
 松井石根大将が、要求する増強や献策はほぼ無視され続けました。

 上海にいる邦人を救出するために上海の郊外に上陸した松井大将の指揮する陸軍の進撃速度は、満洲事変で石原莞爾らが数十倍の東北軍閥を数日間で壊滅させたり、支那事変初期の同じ時期に北支那方面での者に比べてはるかに遅く死傷者が日露戦争での旅順要塞攻略戦に等しいほど多かったので、松井石根大将の指揮能力が陸軍部内で批判されていました。
 勿論それは、正規の兵隊ではなく匪賊に過ぎない東北軍閥の軍や正規の軍事訓練を受けた事が無く西洋式近代軍備もない華北軍閥の支那軍との戦闘と国民党の精鋭正規軍との戦闘を同等に論ずる、全く馬鹿げた誹謗中傷でした。
 ワイマール共和国初期にドイツを差配したフォン・ゼークト大将が1934年にドイツ軍の精鋭をえりすぐってルーデンドルフのドイツ政府が組織した中国支援ドイツ軍事顧問団の団長に就任して中国に渡り、蒋介石に変り、南京軍官学校の委員長室で直接各種の命令を発して、三年間でドイツ製武器を装備したニ十個師団の編成を決定しました。
 ドイツ軍事顧問団主導でドイツ式軍事教育を行う中央士官学校、陸軍大学校、歩兵学校、憲兵訓練学校、化学戦学校、防空学校、航空士官学校、海軍兵学校が設立され、それ等に教育された国民党軍は、東北や華北の軍閥軍とは似ても似つかない強兵でした。

 更にそれら正規軍は日本の派遣軍よりはるかに多く、日本排除成功後の中国利権の独占に燃えるドイツ政府が提供した日本軍のより優れたドイツ製の火器で重武装され、第一次世界大戦でドイツ租借地の山東省を奪った日本への復讐と軍事顧問団が、周到に計画した対日戦争計画をもとに、上海周辺の水郷地帯に網の目のようあるクリークを堀として利用し分厚いコンクリートで防御されて無数に建設されたトーチカに籠っていたので、ドイツ将校団は日本軍の撃滅を確信しており、蒋介石から末端の兵士に至るまでの支那軍の士気は非常に高く自信満々でした。

 したがって、上海附近の戦闘はドイツの構築した無数のトーチカ陣地に籠るドイツ式の軍事訓練を受け、ドイツの最新式垣を装備し、ドイツ人将官に指揮される国民党軍の大軍と少数の日本の急成師団による戦いで、実質的には「日独戦争」でした。

 そのような不利な状況の中、莫大な犠牲を払いながら日に数メートルの単位で前進し、遂に上海を解放し更に主と南京迄落として国民党政府を内陸奥に追いやった松井大将指揮下の上海派遣軍の奮闘は、正しく日露戦争における旅順攻略、遼陽会戦
首山堡攻略に比すべき大激戦の勝利でした。
 遼陽会戦では、ロシア軍はまだ主力を残しており、戦略的撤退だとしてロシアの勝利だと主張しましたが、松井大将の上海戦では、自分に十倍する戦力が守る上海から南京に至る重層要塞線を奪取し、国民党軍のドイツ式中央精鋭軍を完全に粉砕しまし、その後の日本軍の戦闘を容易にしました。

 そして、松井大将は南京攻略後、長期留任を念願し、いよいよ大亜細亜主義に基づく親日政権樹立、住民安撫工作、停戦に自信を持ち願っていましたが、残念なことに南京戦が終了すると解任されていしまいました。

 松井大将の後任の司令官は皆、松井大将のような世界情勢に対する広い見識、アジア全てを網羅した大戦略、軍事よりも人心把握を重視した理念思想戦略を持っていなかったので、以後は支那大陸は戦争のみの地となりました。



3.全てが松井大将の権威を失墜させ大亜細亜協会を崩壊させようとしたかのように事が運んだ

 私には、当時の松井大将が四面楚歌で、唯、天皇陛下と国民大衆の支持が大きいのみであったと感じます。
 支那事変の発生自体が、欧米の植民地主義勢力、世界の共産主義勢力、ユダヤなどの国際金融資本すべての謀略による「大日本帝国弱体化」であったのは昨今の林さんや江崎さん他の考察で明らかになっています。

私の考え
もしも、戦前の日本が欧米や共産主義者の言う通り「侵略国家」ならば彼らは「共存」できた。何故なら彼等にとっては同類なので相互の妥協が成立できたからです。
 例えば、現地にしっかりとした政府を造り住民が安心して暮らせるようにしたりせず、巨大財閥や国際金融資本の投資・借款を積極的に受け入れ、全ての住民の権利を奪い、現地人を奴隷状態にしたでしょう。
 ところが、戦前の日本は侵略とは正反対の「道義国家」であり「植民地の抑圧民族解放の盟主」で、大亜細亜協会などがアジア各国の「独立の闘士」を来日させ独立を積極的に支援し、あくまで各民族が自立する中での民族資本の育成、政治の安定、教育の普及を目指したですから、欧米諸国からすれば交渉の余地は全くなく、大亜細亜協会は無視し滅亡を願う敵でした。
 大亜細亜協会は、単に「アジア主義」を鼓吹するだけではなく、世界の諸情勢を綿密に調査分析し、実際のアジア諸民族独立を実行しようとする行動団体でもありました。
 ですから満洲国建国以降の日本が「共存できない不倶戴天の敵」として殲滅の対象となったのです。

「世界の抑圧された民族解放」の中心的旗頭が「大亜細亜主義=興亜思想」であり「大亜細亜協会」とその象徴的指導者の「松井石根大将」でした。
 支那事変、大東亜戦争、極東国際軍事裁判、GHQの日本占領により、世界の指導的勢力はその目的である、世界制覇、世界中の庶民の隷属化を達成した。

結論 松井大将の真実を明らかにすることは、近現代の世界史の真実を明らかにする人類史的意義を持っている
と言えると思います。

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プロフィール

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Author:bokudoart
 幼少より絵を描く事、中国や北方・中央アジアの歴史が大好きであった。大学を卒業し会社勤めのあと中国の美大で水墨人物画を専攻し美術史専攻の大学院にも進み中国の古文献読破に数年間没頭した。以来、約二十年画家・美術団体代表として活動中。中国での生活で、今後の世界における日本の果たすべき歴史的役割を明確に知った。
 1万年以上途切れることなく続いた縄文文化に根差した日本という国の文化の素晴らしさを日本人は自覚し世界にそれを広めなければならない。青学大卒、南京芸大院修