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樋口季一郎「皇道的大亜細亜主義の主張」『大亜細亜主義 第3号』所載

樋口季一郎

    『大亜細亜主義 第3号』大亜細亜協会編(大亜細亜協会)昭和87p26所載

「皇道的大亜細亜主義の主張」

樋口季一郎

 大亜細亜主義とは何か。それは今日啻に多くの我同胞識者によって論議せられ主張せられつつある主義理想たるに止まらず、満洲人、支那人、土耳古人、南洋人等によって絶大の共鳴を博しつつある主義理想である。

 大亜細亜主義は「亜細亜諸民族の連合」、「亜細亜人の亜細亜」従って所謂汎亜細亜主義、亜細亜「モンロー」主義たることに於て異存なしとして、果たして亜細亜人とは、亜細亜とは何ぞや。是に関し、過度の放任主義、呑気主義は将来大亜細亜主義発展に対する大いなる障碍たるを信じ、予は今亜細亜人とは何ぞやに関し一言せんと欲するものである。

 亜細亜人とは亜細亜なる地理的範域に生存しつつある人間を指すことなるか。然らば亜細亜に生活しつつある欧米人も亜細亜人ということになる。若し斯かる自由主義的立場に於て亜細亜人なる定義を定むとせんか、大亜細亜主義それ自体の有する目的は極めて不鮮明とならざるを得ない。若し夫れ基督の所謂、愛乃至人道なるものが如実に実行せられ居たらむには、今日特に思い付いたる如く大亜細亜主義を叫ぶ必要は無いのである。否な殊更なる「亜細亜人の亜細亜」の提唱は、いかにも排他的であり、非仏教的であり、非基督的であり、非亜細亜的であり、非日本的である。だがそれは実に已むに已まれぬ現実相に対する反抗であり、従って大なる妥当性を有することとなるのである。此のことはいかなる基督教主義者、国際連盟宗徒、拝欧主義者と雖も否み得ざる世界政治の実相ではないか。

 此意味に於て亜細亜人とは其祖先が亜細亜に於て育まれ、養われたる人種的関係を有すると共に、祖国乃至其社会が現在欧米白色人種により、精神的に将た又物質的に大なる圧迫と脅威と迫害とを受けつつある亜細亜人を意味するのである。従って亜細亜人中には如何なる階層の白色人をも含まざることが明瞭となる。だが此主張に対し或者は「然らば世界一等国民たる日本人はこの定義に該当せぬ」と主張するであろうが、斯かる輩こそは彼の華府条約、倫敦条約を締結して永久に我等の将来を暗黒ならしめたのである。一体日本は一等国なりや。彼等欧米人は我等を一等国民として待遇しありと云うか。曽て予は、波蘭首府ワルソーに於て露国公使ウォイコフなるものと会談せし事があった、而も時は日露修交の直後であり、英露関係の最悪の時代であった。故に彼は我等日本人に対し、十二分の好意とコンプリメントを投げる事に躊躇せぬのであった。彼曰く、「諸君は亜細亜に於ける欧羅巴人である。予等は欧州に於ける亜細亜人である。我ら両国民の握手提携は必然的運命である」と。だが果たして此措辞はコンプリメントとして成効して居るか。此思想の裏には、欧州とは「文明にして、亜細亜とは野蛮」という概念がないか。是は一例だが、白人の有色人を見る事其最大好意を以てするの場合に於ても、白人優越感を遠慮することは無いのである。それは波爾的諸邦乃至バルカンの白色半開民族に於ても共通なる意識である。

 彼等は亜細亜及亜細亜人を蔑視し軽視する。我等は亜細亜及亜細亜人を愛し敬し重視する。そこには土地、領土観以上の血液、人種観が作用して居る。斯かる観点よりすれば、人種的親疎に於て亜細亜人たると然らざるとを判別すべきであり、従って日本人に関する限り、大亜細亜主義を主張する前にウラルアルタイ族を重視するツラニズムを主張すべきである。是れ蓋し、満州国家の独立、日満支の三国関係を律すべき唯一の尺度である。然し乍ら我等は数千年前の人種、人文、精神を唯一の標準として亜細亜の平和と幸福とを論ずべきではない。我等ツラン民族が、有色亜細亜人の代表なりとせば、亜細亜人こそは一切の有色諸民族の代表とみなすべきであり、亜細亜こそは白色欧米による被圧迫有色諸民族の棲息する領土の代表である。この意味に於て亜細亜人の亜細亜、亜細亜人の解放とは被圧迫有色大衆の解放を意味する。従って我等の主張する大亜細亜主義は、之を小乗的には日満の共同提携となり、大乗的には、大亜細亜否な世界被圧迫民族の解放を意味することとなり、此観点よりせば、亜細亜の問題は世界の問題となる。又此世界、亜細亜、日満の提携平和は祖国日本の完全なる独立発展を以て絶対の条件とするが故に、亜細亜とは日本なりと云い得べく、同時に大亜細亜主義とは日本主義ともなり、世界主義ともなるのである。

 大亜細亜主義に関する定義の所説は当然に大亜細亜協会創立趣意書を以て統一せらるべきである。該趣意書の内容を要約すれば左の如くなる。

1,満州事変を契機として発生せる独立満州国の出現は全亜細亜の団結と再組織への前提をなして居る。

2,亜細亜は、文化的にも、政治的にも、経済的にも、地理的にも、一個の運命共同体を形成するが故に、亜細亜諸民族の真の平和と福祉と発展とは、一体としての亜細亜の自覚とその有機的結合の上に於てのみ可能である。従って、亜細亜民族相互の反目と抗争とは、外部よりする干渉と重圧とに対し好個の機会を提供す。

3,亜細亜の再建と秩序の重責は、主として皇国日本の双肩に懸る。蓋し皇国日本の文化力、政治力、経済力、組織力なくして亜細亜の再建と其連盟の結成とは、一個の空論以外の何物でもないからである。

4,大亜細亜連盟の結成は一見極めて偏狭、排他的なるが如きも、人類社会に秩序と統制ある平和と幸福とを齎すべき必然的工程である。蓋し一家、一国の平和より亜細亜、欧州、米州の平和なる階段を通ずることなくして、世界平和は一足飛に期待し得ざるが故である。

 以上によりて大亜細亜協会の意識する大亜細亜主義なるものの全貌は自ら窺知らせらるべきものと信ずる。それは満州人支那人の主張するならむが如き王道的大亜細亜主義ガンヂーの絶叫するならむが如き無抵抗主義的大亜細亜主義ではなく、明かに皇道的乃至は日本的大亜細亜主義である

 皇道とは何か。それは不言実行である。此大亜細亜主義なるものが、日本の国際連盟脱退に伴う単なるお題目たるに了り、乃至亜細亜諸民族の一部代表と称するものの会合横談を以て満足するならば、それは明かに有言不実行、即非皇道的非日本的邪道的大亜細亜主義に堕したるものである。我等の大亜細亜主義は、亜細亜に於て最も実効性ある亜細亜の先達日本が建国の大理想たる人類の絶対平和と幸福とを目標とし、先ず其大義を亜細亜に布かんとするものである。

 果たして斯くの如きを過度の自己尊重、自己中心と謂うか、斯く感ずる人々それを称して自由主義者と呼ぶ。斯かる輩は須く大亜細亜主義を去ってウィルソニズムたる国際連盟主義に赴くべきである。蓋し文化、経済、凡ゆる点に於て自動的乃至他動的原因よりして、崩壊過程を辿り、或いは、現に没落と苦悩の深淵に呻吟しつつある個々多数の亜細亜民族を駆りて似而非平等観に基く握手、提携に精進せんとするは、其現実に即せざる点に於て、ウィルソニズムと五十歩百歩であるからである。此意味に於て日本を中心とせざる大亜細亜主義は徒らなる空論横議以外の何物でもあり得ない。世界の大勢特に白人跋扈の現実的世界の空気を呼吸し、亜細亜民族の独立と解放に向かい、現実的なる努力と精進をを惜しまざらむ程の亜細亜諸民族は、例外なく日本中心大亜細亜主義の真理なる所以に開眼するであろう。而して斯くの如き亜細亜の実相に於て日本民族の責務は果たして軽しと謂うべきか。

 以上に於て皇道的大亜細亜主義の実践的実効的なるべき所以を明らかにした。然らば実践的なるべき大亜細亜主義は日本及日本人に対し、果たして何をか要求し要望する。予はそれを日本の対外国策としての対満国策に当然反映し実現課すべきものと信じて居る。蓋し日満関係の調整完成こそは、実に亜細亜再建の礎石であるからである。

 満洲国官民は、世界に宣言高唱して曰く「余等は満州新国家に於て、王道楽土を建設せん」と。我国朝野又口を開けば日満関係の調整を叫ぶ。而して今日、亜細亜、否世界平和建設の礎石満洲は、如何なる新国家の態様を具備しありや。(1)満洲は日本と精神的にも物質的にも密接不可分の関係に立つ独立国たるべきか、(2)張家の喰物としての依然たる満洲と異なることなく留まるべきや、(3)将た又日本帝国主義の爪牙(そうが)に蹂躙せらるべき運命下に立つと解すべきか。現今満洲国家の実相を熟々(つくづく)観察するに、遺憾乍ら第三にあらずとするも、第二以外の観察圏以外に出づる能わざるを悲しむ。それ果たして満洲立国精神目的なりや、日満相互関係の求る所なりや。

 斯く言えばとて予は、満洲国家内に日系満人活動し、而も日系満人が新国家機構の諸部門に於て、指導的立場に立つことを以て、毫も不可思議とはせぬのである。何故なれば、満洲国家自体左様なる条件と、左様なる建国的精神即ち、民族協和、王道的楽土建設の指導精神に於て生まれたる民族協和国家なるものが故である。

 予は張家の暴政に反抗し、皇国日本人をもその組織分子となし、否、皇国日本の善隣的指導誘掖を根本的条件として構成せられし兄弟国家満洲国に対し、依然として資本主義的乃至帝国主義的、侵略主義的白人国家の常道たる権益イデオロギーを放棄する能わざる我が朝野の醜態こそ最も非妥当性なりとして排撃せんとする者である。満州国家内に日本国が依然として、租借権、治外法権を含む一切の権益を死守し、それの上に於て対満国策運営せられある実相、是れ果たして何ものであるか。

 我等は即刻日本国家が、斯くの如き非皇国的対満態度を放棄せんことを要求せんと欲する。それは、果たして日本及日本人の利益を度外視せる宋襄の仁なるべきか、それ等の杞憂を抱く人々は一昨年の九月十八日の意義が未だに理解し得ぬのではあるまいか。予は即刻と申したが、金融、関税、産業等を含む一切の政治、経済、国防に関する日本の対満諸条件の完成を俟たずして、即刻之が実現を期すべしとは主張せぬ。蓋し物自ら順序と行程の存するを知るが故である。唯然し、今日我国朝野に於て、果たしてこの透徹せる一貫せる対満国策があるであろうか。これが如何にも我等門外漢を憂慮せしめずには措かないのである。国策、即ち方針先ず決して、末節的各部門を塩梅する、それは人事の必然的行程ではないか。それが右顧左眄するとすれば、予は満州国家の成立は、大亜細亜主義的立場よりするも、何等意義なきものとなるのではあるまいかと考える。而してそれに基ずく弊害が、現実に満洲対日本、日本官界の相互、官民の相互に於てあまりに多くの例証を伝えられて居るのではないか。

 若し日本の対満関係が如上(じょじょう)の如き皇道的見地に於て確立せられ、実行せらるとせよ、日満支の関係、日満露の関係の如き、此日満関係の調整の結果として必然的に好転すべきであり、万一好転せぬ場合、日満のとるべき態度は何と合理的であり、公明正大であり、強力であり、実効的であり得るであろう。

 右提言に対し、或る者は反駁して曰く「如上対満国策は主義に於て何等意義なきも、それは一方国内的には政治経済機構の変革なくして期待し得ざると同時に、他方、英米を代表とする白色諸民族の神経を先鋭ならしむるを以て、軽々に処断し得ず」と。然り、国内の国外に対する反映は必然的である。だが日本民族は、果たして目下炎々として燃え広がりつつある国内的、国外的一種レヴォルユション乃至エヴォルユションの運命より離脱し得べしとなすか、大亜細亜主義の根本は畢竟日本其のものの調整に外ならぬであろう。前述対満国策を以て皇道的大亜細亜主義に基ずく皇道日本の外交的積極策なりとせば、我等は其消極策の一表現として、華府、倫敦会商に基ずく亡国的諸条約の廃棄を主張して止まぬものである。それは反英即親米を主張する非独立的論者と絶対に相容れざる主張である。予は本文初頭に於て日本の独立と云ったが、実に今日は精神的に余りにも非独立的識者の多しといわざるを得ぬ。

溝口追記
 戦前、戦中の日本人の本当の姿を知るには「大亜細亜主義」を知らなければ何も始まらない。
 先ずは、樋口季一郎の主張をご紹介します。

 今の日本と世界中では、「満洲国建国は覇権、権益奪取のための侵略である」とされていますが、それはとんでもない間違いです。

 勿論、権益、覇権、領土拡張にこだわった者たちも多かったのですが、少なくとも当時の一大思潮である「大亜細亜主義」を主張する者達はそうではありませんでした。
 「大亜細亜主義」の理想は亜細亜民族の独立、自立、平等、平和にありました。
 それは日本人が自然に持つ皇道的精神の発露でした。
 まさしく人類普遍の「人道主義」の精華ともいえるものでした。
 ですから、松井石根も石原莞爾、樋口季一郎も皆「満洲人の滿洲」「日本人の治外法権撤廃」「日本人の覇道に反対」を主張したのです。
 勿論、玄洋社などのアジア主義者も同様です。
 それが、当時の日本の主流思潮の一つであったのです。

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Author:bokudoart
 幼少より絵を描く事、中国や北方・中央アジアの歴史が大好きであった。大学を卒業し会社勤めのあと中国の美大で水墨人物画を専攻し美術史専攻の大学院にも進み中国の古文献読破に数年間没頭した。以来、約二十年画家・美術団体代表として活動中。中国での生活で、今後の世界における日本の果たすべき歴史的役割を明確に知った。
 1万年以上途切れることなく続いた縄文文化に根差した日本という国の文化の素晴らしさを日本人は自覚し世界にそれを広めなければならない。青学大卒、南京芸大院修