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軍閥は「統制派、皇道派」だけでなく、当初は「清軍派」もあるとされていた!

陸軍派閥一覧表
私がトレースし直した「昭和9年憲兵隊所有の陸軍派閥系統票」から、軍閥は「統制派、皇道派」だけでなく、当初は「清軍派」もあると憲兵隊に認識されていたことが明確にわかる
①この表こそが、統制派、皇道派の名がつけられた最初期のもので、おそらく片倉衷の証言「私の参本時代、美座大尉(美座時成・陸士28期)という憲兵が私の所に派閥系列表を持って来た。皇道派、統制派、清軍派の系列表です。」だと思う。
片倉の証言を信じるならば、彼が参謀本部に勤務していた1933年8月から1934年12月の間のことになり、表中の記載「昭和9年(1934年)10月頃憲兵隊が入手」と一致する。
②1933年から1934年にかけて憲兵隊により名付けられた「統制派、皇道派、清軍派」のうち「清軍派」は後にいわれなくなった。
それは領袖とされた松井石根大将自身が派閥形成を嫌い考えの違うものも拒否しなかったことと拒否しなかったことと、皇道派、統制派と違い陸軍の最高権力とされる陸軍大臣 参謀総長 教育総監の三長官の猟官運動を一切せず、青年将校に担ぎ上げられることも拒否したためであろう。
③松井石根大将は1933年に「大亜細亜協会」を設立し、大亜細亜主義に基づくアジア民族の平等・自主独立を目指す国民運動を開始し、そこに参加した将官軍人は60名以上ののぼり、大勢の佐官を含む在野の陸軍軍人の多くの支持を集めていた。
また、宇垣大将支持派や関東軍の一部、桜会所属軍人のほとんども参加していて、規模的には統制派、皇道派に全く引けを取らないどころか人数では勝るほどの勢力を持っていた。
④松井石根大将の「清軍派」「大亜細亜協会」の中心メンバーには、建川美次中将、樋口季一郎中将、本間雅晴中将、南雲忠一中将、加来止男大佐など、大戦で見事な戦いをしたり、ユダヤ人救済に尽力するなど異色を放った陸海軍軍人がいた。

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Author:bokudoart
 幼少より絵を描く事、中国や北方・中央アジアの歴史が大好きであった。大学を卒業し会社勤めのあと中国の美大で水墨人物画を専攻し美術史専攻の大学院にも進み中国の古文献読破に数年間没頭した。以来、約二十年画家・美術団体代表として活動中。中国での生活で、今後の世界における日本の果たすべき歴史的役割を明確に知った。
 1万年以上途切れることなく続いた縄文文化に根差した日本という国の文化の素晴らしさを日本人は自覚し世界にそれを広めなければならない。青学大卒、南京芸大院修